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モーツァルトとベートーヴェンの根本的な違い

 ベートーヴェンがモダンの代表とすれば、ポストモダンに合うのがモーツァルトである。もちろん彼ら二人は、ハイドンと合わせて、俗に「ウイーン古典派の3人の巨匠」並び称される存在である。共通点もたくさんある。そもそも交響曲と弦楽四重奏とピアノ・ソナタは、モーツァルトやハイドンが基礎を築き、ベートーヴェンがその上に金字塔を建てたジャンルである。これらの構成上の基礎となるソナタ形式にしても同様である。

  にも関わらず、感性や世界観といった点で、実はモーツァルトとベートーヴェンは水と油のように対象的である。しかもそれは単なる個人のメンタリティの違いというに留まらない。その背景には時代の大逆転が引き起こした、どうにも埋め難い深い溝が横たわっている。フランス革命である。つまりモーツァルトはフランス革命より前の人であり、対するベートーヴェンは革命時代の申し子だ。これを意識して置くことは、近代クラシックの歴史の理解にとって大変重要なことである。

  モーツァルトとベートーヴェンは、実はかなり歳が離れている。モーツァルトは1756年に生まれて1791年に亡くなった。フランス革命の勃発が1789年だから、ほとんど同時に亡くなったことになる。対するに1770年生まれのベートーヴェンは、1827年まで生きた。ベートーヴェンの作品1(ピアノ三重奏曲)はだいたい1794〜95年に書かれているから、要するにベートーヴェンは革命後にデビューした人なのであり、しかもモーツァルトより36年も先まで生きた。この差は大きい。

  モーツァルトが全く知らなかった世界、つまりギロチンやナポレオンの動乱、それに続くウイーン会議、あるいは19世紀に於ける市民社会の発展を、ベートーヴェンはたっぷり見聞する機会があったわけだ。この違いが音楽に出てこない訳がないだろう。

  ベートーヴェンの作品の多く、特に交響曲は近代市民のための「頑張りソング」である。みんなで頑張ろう、そうすれば輝かしい未来が待っている!ドラクロワの描いた「民衆を率いる自由の女神」の絵画のように、ベートーヴェンの音楽は市民たちを励ます。輝かしいクライマックスを目指して突き進む。盛り上がりに盛り上がる。交響曲第3番「英雄」や第5番「運命」や第9番「合唱」は、いうなれば高度経済成長期的ノリのイケイケ音楽である。こういう音楽を書くときのベートーヴェンの圧倒的なパワーと輝かしさは、本当に天下無双であった。後の19世紀ロマン派の作曲家たちを呪縛し続けた。クラシックといえばオーケストラによる圧倒的な盛り上がりをイメージすることが多いが、これはまさにベートーヴェンによって刻印されたものであった。

  対するモーツァルトは、「頑張れば輝かしい未来が待っている!」などといった世界観とは全く無縁の人である。そもそも彼が生きたのはいわゆるアンシャン・レジーム、つまり程なく滅びる運命にあった貴族社会の爛熟の果であり、天才少年だった幼い頃の彼は、父親に連れられて、もう数十年しか余命のなかったヨーロッパの多くの宮廷を訪れた。モーツァルトの曲のフィナーレは、どれだけ華やかな時であっても、これでもかこれでもかと盛り上がったりはしない。限りなく美しいが、どこか儚い。

  またモーツァルトの終楽章の終わり方は、どの曲を聴いても比較的パターン化されているのも面白い。そこにはハッピーエンドがお約束になっているドラマの、楽しき終わりの「シャンシャン」といった趣がある。たとえ本当によかったね!なのかどうかわからずとも、宴の最後の締めは楽しくやるのである。これが滅びゆく運命にあった貴族たちの矜持というものである。しばしばベートーヴェンの曲の終わり方が、「これが結論だ!突き進め!」と言わんばかりの熱狂を見せるのと、それは本当に対照的だ。

  短調の曲の作り方の違いも面白い。ベートーヴェンの短調は多くの場合、最後に長調に輝かしく転じる。「運命」や「第9」は典型だが、「英雄」も第2楽章の葬送行進曲の短調が、第3及び第4楽章で再び長調となる。英雄は復活するのである。ベートーヴェンは絶望から立ち上がる。そのフィナーレは凱歌となる。どこまでも彼は人生に対して前向きである。もちろんピアノ・ソナタ第23番「熱情」のように、短調で始まって、短調の絶望で終わる曲もある。だがそんな時でも彼はこの曲の嵐のようなトーンが示唆するように果敢に運命に立ち向かうだろう。そして戦いの果に敗れ去るのである。

  それに対してモーツァルトは、ここでもまた彼の同時代の貴族たちに似て、自分の運命に対して恭順である。彼の短調の曲は決して闇から光へ!絶望を乗り越えて希望へ!とばかりに盛り上がって、長調へなだれ込んだりはしない。ピアノ協奏曲第20番にしても交響曲第40番にしても、音楽はずっと闇に閉ざされたまま推移する。そして時としてそこに長調がきらめくのだが、それはまるで儚げなロウソクの灯りのように、再び暗がりの中へ消えていく。彼は自分の運命を自分で切り開こうとはしない。むしろそれを甘受する。その佇まいは確かに、抗いもせず誇り高くギロチンの露と消えた、アンシャン・レジームの貴族たちを連想させる。

  もちろんモーツァルトにも、とりわけ晩年の作品になると、壮大な盛り上がりを見せる 曲もある。交響曲第41番「ジュピター」などがそれだ。あるいはピアノ協奏曲第25番のフィナーレも本当に力強い。こういうものを聴いていると、もうベートーヴェンは目の前という気がしてくる。だがそれでもなお、モーツァルトとベートーヴェンの盛り上がりの間には、根本的な世界観の違いが横たわっている事を、決して見逃してはなるまい。

  「ジュピター」にしてもピアノ協奏曲第25番にしても、そのクライマックスはいわば、あまりにも幸せ過ぎて切なくなる程の刹那の表現である。繊細で脆くてすぐに壊れてしまいそうな、美と幸福の幻影である。それに対してベートーヴェンの音楽は、良くも悪くももっと頑丈だ。ちょっとやそっとで彼の曲は壊れたりはしない。タフなのである。しかしモーツァルトの交響曲を演奏することは、別にプロを目指している訳でもない高校生には絶対に無理だ。ちょっとでもピッチが狂ったら、雑な音を出したら、あっという間に瓦壊してしまう。かくもモーツァルトの音楽の美しさとは、脆いものなのである。


チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)釧路市のピアノ教室

大学時代はパイプオルガン科に進み、卒業後は音楽学校でラウンジプレイヤー養成・ピアノ科で学ぶ。ピアノ講師に就いた後、北ドイツのハンブルグに留学し、ヨハネス・ブラームス音楽院ピアノ科を卒業する。世界三大音楽院のモスクワ音楽院のピアノマスタークラスを修了し、イギリスのトリニティ音楽大学の演奏グレードを取得し現在のピアニスト活動に至る。作間洋子、水垣玲子、エレーナ・リヒテル、岳本恭治、岩崎洵奈に師事した

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