序章 嵐の前の静けさ
ライプツィヒの夕暮れは、音楽の街にふさわしく、どこか柔らかな沈黙を抱いていた。街路に並ぶ石畳は昼の熱をまだ手のひらに残し、黄昏の空気は、人の心の奥に眠る未決の感情を静かに揺り起こす。1834年の春、ひとりの若き指揮者が、この街の片隅で運命の扉を叩いた。 リヒャルト・ワーグナー。野心と幻想、才能と不安、そして底知れぬ孤独を抱えた青年だった。 その夜、彼は劇場の楽屋口で、ひとりの女優と出会う。ミンナ・プラナー――舞台の上では輝くように美しく、だがその瞳の奥には、すでに人生の影を知る者だけが持つ翳りがあった。
後にヨーロッパ音楽史を揺るがす作曲家となる男と、劇場という不安定な世界を生き抜いてきたひとりの女。その出会いは、決して「運命的な一目惚れ」といった甘美な言葉で片づけられるものではなかった。むしろそれは、似た傷を持つ者同士が、互いの孤独に引き寄せられた必然だったのかもしれない。 ミンナは当時すでに舞台女優として一定の成功を収めていた。若くして家庭に恵まれず、世間の冷たい視線を浴びながら、自らの才と美貌だけを武器に生き抜いてきた女である。その強さは、男たちの賞賛と同時に、どこか近寄りがたい気配を纏わせていた。 一方のワーグナーは、まだ無名に近い指揮者であり、作曲家としての評価も定まらぬまま、焦燥だけが胸を満たしていた。成功への渇望、理解されない苦しみ、そして「自分は特別な存在であるはずだ」という根拠のない確信。それらが彼の内部で渦巻いていた。 その夜、楽屋裏の薄暗い廊下で交わされた数言の会話が、ふたりの人生を決定的に絡め取ることになるとは、まだ誰も知らなかった。
0コメント