序章 沈黙の作曲家、笑う老人
パリの夕暮れは、いつも少し芝居がかっている。カーテン越しに差し込む光は、現実をやわらかく歪め、サロンに集う人々の表情を、どこか舞台の登場人物のように見せる。 「私はもう、引退した老人なのだよ」 そう言って微笑った男の名を、彼らは皆、知っていた。 ジョアキーノ・ロッシーニ。 『セビリアの理髪師』『ウィリアム・テル』——若くしてヨーロッパを席巻し、三十代半ばで筆を折った天才。 だが、この場に集う若者たちが本当に知りたかったのは、和声でも形式でもなかった。 「先生……なぜ、あなたは、あれほど突然、書くのをやめたのですか?」 老人はしばし考えるように視線を落とし、それから菓子皿に手を伸ばした。 「……音楽よりも、はるかに難しい芸術があったからだよ」 「芸術?」 「人を愛することさ」 笑いが起きた。だが、その笑いの中で、ロッシーニの声だけが、わずかに翳りを帯びていた。 彼は生涯で、数えきれぬほどの女性に囲まれた。喝采の渦、羨望の視線、崇拝と誘惑。その中心に立ち続けた男。 だが、本当に彼の人生を決定づけた女性は、三人しかいなかった。 ひとりは、声で彼の魂を攫った女。 ひとりは、結婚という制度の中で彼を消耗させた女。 ひとりは、沈黙の底で彼を救い上げた女。 そして皮肉なことに、最後の女だけが、彼に「人生」を与えた。 物語は、ナポリの夜から始まる。 まだ彼が、自分の才能が祝福であると信じていた頃。 まだ、愛が人を壊すなどとは、夢にも思っていなかった頃。
第Ⅰ部 イザベラ・コルブラン編
第一章 声に恋した夜
1815年、ナポリ。テアトロ・サン・カルロ劇場。 観客席は宝石のような視線で満ちていた。絹のドレスが擦れる微かな音、扇子の影、香水の甘さ。すべてが、これから始まる“ひとつの奇跡”を予感して、過剰なほどに整えられていた。 ロッシーニは舞台袖に立ち、楽譜を胸に抱いたまま、異様な静けさの中にいた。若い指揮者が緊張した面持ちでタクトを握り、管楽器が息を整え、弦がほとんど聞き取れぬほどのトレモロで空気を震わせる。 ——来る。 自分でも驚くほど、確信に近い予感があった。
彼はこれまで、数え切れないほどの声を聴いてきた。だが今夜は違う。音楽が始まる前から、劇場の奥に、まだ鳴っていないはずの旋律が満ちているような感覚があった。 タクトが下りた。 次の瞬間、声が立ち上がった。 それは、ただ美しいという言葉では足りなかった。金属の芯を持つような強さと、絹のように滑らかな柔らかさを同時に備えた声。高音は鋭く天を射抜きながら、決して硬くならず、低音は深く沈みながら、決して濁らない。 ロッシーニは、息をするのを忘れていた。
イザベラ・コルブラン。 スペイン出身のプリマドンナ。ナポリ宮廷に愛され、貴族たちに崇拝され、噂に囲まれて生きる女。 だが、彼の耳に届いたのは名声でも逸話でもなかった。 「……この声は、人間の感情そのものだ」 その瞬間、彼の中で何かが決定的に動いた。 それは恋というよりも、むしろ“啓示”に近かった。人は、まれに、自分の人生が別の方向へ折れ曲がる瞬間を、はっきりと知覚することがある。あの夜が、まさにそれだった。 幕の内側で、イザベラは舞台に立っていた。背筋はまっすぐ、顎はわずかに上がり、観客を見下ろすのではなく、包み込むように視線を投げる。その立ち姿には、演技以前の「存在感」があった。 歌いながら、彼女は客席だけでなく、舞台袖の気配も鋭く感じ取っていた。
——いる。 新しい作曲家が、そこにいる。 近頃ナポリを騒がせている若き天才。饒舌で、皮肉屋で、だがどこか人の痛みに敏い男。彼の視線が、自分に向けられているのを、イザベラは知っていた。 歌が終わり、嵐のような拍手が巻き起こった。だがイザベラの意識は、その喝采ではなく、舞台袖の一点に吸い寄せられていた。 幕間、彼女は控え室に戻る途中で、ロッシーニとすれ違った。 ほんの一瞬だった。 「……美しい夜ですね」 気づけば、彼はそう言っていた。あまりに凡庸な言葉だったことに、すぐ気づいたが、もう遅かった。 イザベラは足を止め、ゆっくりと彼を見た。 「ええ。……声が、よく響く夜です」 その返答は、彼の言葉をやさしく受け止めながら、同時に、自分の領域をきちんと守っていた。
ロッシーニは、その距離感に、奇妙な安堵を覚えた。多くの女性が彼の“天才”に群がったが、この女は違う。彼女は、自分の声と同じくらい、強い輪郭を持っていた。 「……あなたの声が、私に音楽を教えてくれました」 思わず、そんな言葉が口をついて出た。 イザベラは一瞬だけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに微笑った。 「それは、光栄です。でも……音楽を教えられるのは、作曲家だけだと思っていました」 その言葉は冗談めいていたが、どこか本気でもあった。 「いえ。あなたの声には、すでに音楽があります。私は、それを書き留めるだけでいい」 その瞬間、イザベラの表情がわずかに変わった。賞賛には慣れている。だが、“理解”には、ほとんど出会ったことがなかった。 「……危険なことを言いますね、先生」 「危険、ですか?」 「そういう言葉は、人を、その気にさせます」 ロッシーニは、思わず笑った。 「その気になった人間が、どれほど危険か……あなたは、もう十分にご存じでしょう」 イザベラも、かすかに笑った。 それは、恋の始まりの笑みというよりも、ふたりの魂が初めて互いの輪郭を認識した瞬間の、静かな合図のようなものだった。 その夜、ロッシーニは宿へ戻ると、眠ることができなかった。 机に向かい、白紙の楽譜を前に、何度もペンを持ち上げ、何度も止めた。だが、頭の中では、すでに旋律が流れていた。イザベラの声をなぞるように、自然に生まれ、自然に連なっていく音たち。 彼は気づいた。 ——私は、この声のために、書きたい。 それは野心ではなかった。計算でもなかった。 ただ、避けがたい衝動だった。 こうして、ひとつの出会いが、ひとりの天才の運命を、静かに書き換え始めた。 まだこのとき、ふたりとも知らなかった。 この夜が、栄光の始まりであると同時に、長い消耗の始まりでもあることを。
第二章 舞台という戦場(創作と欲望)
翌朝のナポリは、前夜の熱狂をまるで別人の顔で迎えた。港には魚の匂いが立ち、石畳は湿り、洗濯物が白い旗のように揺れている。だがロッシーニの内側では、まだ劇場の残響が鳴り止まなかった。 彼は歩きながら、昨夜の声を何度も反芻していた。高音の立ち上がり、母音の色の移ろい、息の長さ。まるで精密な地図を頭の中に描くように、音の輪郭が再構築されていく。 「……これは、ただの才能ではない」 彼は独り言のように呟いた。 イザベラ・コルブランの声は、技巧の積み上げでは説明できない“必然性”を帯びていた。高い音が出るから凄いのではない。彼女の声は、感情が生まれるその瞬間に、最もふさわしい音程を選び取ってしまうかのようだった。
数日後、ロッシーニは新しいスケッチを抱えて劇場へ向かった。書いたのは、まだ作品の断片に過ぎない。だがその旋律には、はっきりと“宛先”があった。 控え室の前で、彼は一瞬だけ足を止めた。 ——天才としてではなく、一人の人間として会いたい。 そんな考えが、自分の中に芽生えていることに、彼自身が驚いた。 扉をノックすると、内側から「どうぞ」という声がした。昨夜の舞台の声とは違う、少し低く、少し疲れた、しかし驚くほど親密な響きだった。 イザベラは鏡の前で髪を整えていた。舞台衣装ではなく、質素なドレス。豪奢な光を脱いだ彼女は、意外なほど静かな存在に見えた。 「先生。今日は、作曲家としてではなく、批評家としていらしたの?」 皮肉とも冗談ともつかぬ口調だった。 「いいえ。……聴いていただきたくて」 彼は楽譜を差し出した。
イザベラは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと受け取った。 「私のための音楽?」 「……そのつもりです」 彼女は譜面を目で追いながら、小さく口ずさんだ。音程を確かめるように、慎重に。しかし次の瞬間、彼女はふと顔を上げた。 「……不思議ね」 「何が、ですか」 「まだ歌っていないのに、もう“私の声”みたいに感じる」 その言葉に、ロッシーニは胸の奥がかすかに震えるのを覚えた。 それは作曲家にとって、これ以上ない賛辞だった。 こうして二人の間には、創作を媒介とした奇妙な関係が生まれ始めた。ロッシーニは旋律を書く。イザベラはそれを声に変える。そして彼は、その声によって、さらに新しい旋律を思いつく。 循環だった。 いや、もっと正確に言えば、共犯関係に近かった。 稽古場では、しばしば他の歌手たちが眉をひそめた。 「あの二人は、まるで自分たちだけの舞台を持っているようだ」 それは嫉妬でもあり、事実でもあった。 ロッシーニは、イザベラの声のために、通常のオペラでは考えられないような長いフレーズを書いた。息が続くことを前提とした旋律。急激な跳躍。微妙なニュアンスの変化を要求する装飾。 それらは、ほとんど挑戦状のようでもあった。 「できるだろう?」 無言の問い。 「もちろん」 無言の応答。 リハーサルのたびに、ふたりは互いの限界を試すように、ぎりぎりの線を探り続けた。
だが、その緊張は、決して不快なものではなかった。むしろ、そこには陶酔があった。 ——この人となら、どこまででも行ける。 作曲家と歌手という関係を超えた、危うい確信。 ある夜、リハーサルが長引き、劇場には二人だけが残った。舞台上には、まだ片付けられていない椅子や譜面台が散らばっている。 イザベラは、疲れたように肩を回しながら言った。 「あなたは、ときどき残酷ね」 「……私が?」 「ええ。こんなフレーズを書いておいて、“歌えるでしょう?”という顔をする」 ロッシーニは一瞬、言葉に詰まった。 「無理でしたか?」 「いいえ。歌えるわ。……だからこそ、残酷なのよ」 彼女はゆっくりと舞台の縁に腰を下ろし、天井を見上げた。 「私は、あなたの音楽の中で、“完璧な私”でいられる。でも……現実の私は、そこまで強くない」 その言葉は、思いがけず率直だった。
ロッシーニは初めて、彼女が“ディーヴァ”である前に、“ひとりの女”であることを、痛切に意識した。 「……それでも、あなたは舞台に立つでしょう」 「ええ。それが、私の生き方だから」 静かな声だったが、そこには揺るぎのない覚悟があった。 その瞬間、ロッシーニは理解した。 彼女は、ただ称賛されるために歌っているのではない。生き延びるために、歌っているのだ。 それは、芸術家としての誇りであると同時に、ひとつの孤独でもあった。 やがて、ナポリ中に噂が広がり始めた。 「ロッシーニは、コルブランのためにしか書かない」 「彼女は、彼のミューズだ」 「いや、もっと深い関係らしい」 劇場という空間は、芸術の神殿であると同時に、最も残酷な噂の温床でもある。
イザベラは、それらの囁きを、表面上は気にも留めなかった。だが、ロッシーニには分かった。彼女が、以前よりも慎重に言葉を選ぶようになっていることを。 名声は、常に代償を伴う。 そしてその代償のひとつが、「自由に誰かを信じることができなくなる」ということだった。 ある日、ロッシーニは思い切って尋ねた。 「……私の音楽は、あなたにとって、重すぎますか?」 イザベラは、少し考えてから答えた。 「いいえ。あなたの音楽は、重いのではない。……深いのよ」 「違いは?」 「重いものは、いずれ落としたくなる。でも、深いものは……簡単には手放せない」 その言葉は、ほとんど告白に近かった。
ロッシーニは、その意味を十分に理解しながら、同時に、理解しすぎることを恐れていた。 彼はまだ知らなかった。 この「手放せなさ」こそが、やがて二人を強く結びつけると同時に、ゆっくりと摩耗させていく鎖になることを。 だが今はまだ、すべてが高揚の中にあった。 舞台は戦場だった。 だがその戦場は、彼らにとって、最も生き生きと自分でいられる場所でもあった。 ロッシーニは、新しい作品の構想を胸に、夜のナポリを歩いた。 イザベラの声が、まだ耳の奥で鳴っている。 そして彼は確信していた。 ——私は、これからしばらくのあいだ、この声とともに生きることになる。 それが祝福なのか、呪いなのか。 その答えを、彼はまだ知らなかった。
第三章 結婚という劇場(日常の始まり)
結婚の話が、どちらから先に口にされたのか、後年になっても、正確には誰にもわからなかった。 ただ、ある時期を境に、二人の周囲の空気が変わった。 稽古場で交わされる視線が、以前よりも長く留まるようになり、控え室の扉が、わずかに長く閉ざされるようになり、劇場の人間たちが、言葉を選ぶようになった。 「……いよいよ、ということらしい」 楽団員のひとりが、半ば羨望、半ば諦めの混じった声で言った。 ナポリの社交界は、劇場よりもはるかに敏感だった。彼らは、ふたりがまだ何も公言していないうちから、すでに“物語の次の幕”を用意し始めていた。 天才作曲家と、宮廷歌手。 それはあまりにも絵になる組み合わせで、誰もが、そこに幸福な結末を期待した。 ——いや、正確には、「幸福な結末を期待するふりをすること」が求められていた。
ロッシーニ自身も、その期待の渦から完全に自由ではなかった。 ある晩、彼はひとり、宿の机に向かいながら、自分でも不思議なほど真剣に考えていた。 ——もし、彼女と結婚したなら、私はどうなるのだろう。 答えは、すぐには出なかった。 音楽家としての自分。 一人の男としての自分。 社会が期待する「理想の天才夫妻」。 それらが、彼の中で、うまく重なり合わずにいた。 だが同時に、彼ははっきりと感じていた。 ——彼女を、失いたくない。 それは欲望でも、執着でもあったが、それ以上に、恐れに近い感情だった。 彼女が自分の人生から消えることを想像したとき、彼の内側のどこかが、音を立てて崩れるのを、彼はすでに知っていた。
イザベラにとっても、結婚という選択は、単純な夢物語ではなかった。 彼女は長く、ひとりで生きてきた。名声と美貌を武器に、宮廷と劇場という男たちの世界の中で、決して無傷ではいられなかった。 結婚は、救済であると同時に、新たな拘束でもある。 「あなたは……私を、“妻”にしたいの?」 ある夜、彼女はそう尋ねた。 声は穏やかだったが、その奥には、はっきりとした緊張があった。 ロッシーニは、少し考えてから答えた。 「……正直に言えば、“妻”という言葉の意味を、私はまだよく知らない」 イザベラは、かすかに微笑った。 「正直ね」 「だが、あなたを……私の人生の中に、きちんと迎え入れたいとは思っている」
その言葉は、求婚の言葉としては、あまりにも不器用だった。 だがイザベラは、その不器用さに、かえって真実を感じ取っていた。 やがて、結婚は現実のものとなった。 教会の鐘が鳴り、社交界が沸き、新聞が書き立てた。 「音楽界の王と女王の誕生」 人々はそう呼び、祝福した。 だが、祝福というものは、ときに重すぎる衣装のようなものだ。 式の夜、ふたりきりになったとき、部屋の静けさは、むしろ奇妙な緊張を帯びていた。 イザベラは、窓辺に立ち、街の灯りを見下ろしていた。 「……すべてが、あまりにも整いすぎているわね」 「整いすぎている?」 「ええ。まるで、誰かが書いた台本どおりに、私たちが動いているみたい」
ロッシーニは、その言葉に、胸の奥でかすかな痛みを覚えた。 彼自身も、どこかで同じ感覚を抱いていたからだ。 ——これは、私たちの人生なのか。 ——それとも、世間が望む“物語”なのか。 結婚生活は、最初のうちは、意外なほど穏やかだった。 朝、同じ食卓につくこと。 夜、同じ部屋で過ごすこと。 それらは、これまで彼がほとんど経験したことのない“繰り返し”だった。 ロッシーニは、その繰り返しに、ある種の安らぎを覚えながらも、同時に、言いようのない戸惑いを抱えていた。 創作の時間が、少しずつ、削られていく。 稽古場の熱気とはまったく異なる、生活という空気の重さ。 イザベラもまた、戸惑っていた。 舞台では、彼女は常に「求められる存在」だった。だが家庭の中では、突然「共に生きる存在」になった。 その変化に、彼女は、うまく身を合わせることができずにいた。
ある朝、朝食の席で、彼女はぽつりと言った。 「……あなたは、家にいるとき、あまり話さないのね」 「……そうだろうか」 「劇場では、あんなに饒舌なのに」 ロッシーニは、返す言葉を探しながら、ふと気づいた。 劇場での自分は、役割を演じている。 だが、家庭での自分は……まだ、どんな役割を演じればいいのか、わかっていない。 「……私は、夫として、うまくやれているだろうか」 その問いは、半ば独り言のようだった。 イザベラは、しばらく考えてから言った。 「わからないわ。でも……あなたが、真剣であろうとしていることだけは、わかる」 それは慰めでも、非難でもなかった。 ただの事実だった。 その事実こそが、彼らの結婚の本質を、すでに言い当てていた。
愛はあった。 誠実さもあった。 だが、二人とも、「共に生きる技術」を、まだほとんど持っていなかった。 そして、舞台という戦場では許された緊張が、日常という空間の中では、少しずつ、別のかたちの疲労へと変わり始めていた。 結婚という新しい幕が上がったとき、ふたりはまだ知らなかった。 本当の試練は、ここから始まるのだということを。
第四章 割れた高音(衰えと恐れ)
季節が巡るたびに、ナポリの空は同じ色を繰り返した。だが、声は同じではなかった。 最初に気づいたのは、ロッシーニだった。 ほんの一瞬。ほんのわずかな揺れ。 高音へ向かう途中、音が、わずかに遅れる。母音の輪郭が、ほんの少しだけ濁る。客席にいる誰もが気づくほどの変化ではない。だが、彼にはわかった。 なぜなら彼は、その声のすべてを、かつて楽譜に写し取るほどに知り尽くしていたからだ。 ——疲れているだけだ。 そう自分に言い聞かせながら、彼は視線を楽譜に落とした。 だが、その「わずか」は、日を追うごとに確実なものへと姿を変えていった。
ある夜のリハーサルだった。 舞台上のイザベラは、いつものように堂々としていた。だが、クライマックスのフレーズに差しかかった瞬間、声が、ほんの一瞬だけ、裂けた。 音は出た。だが、それはもはや、完全な形ではなかった。 空気が、変わった。 オーケストラの奏者たちは、互いに視線を交わし、指揮者はタクトの振りを、わずかに慎重にした。誰も何も言わない。だが、その沈黙が、すでにひとつの「事実」を語っていた。 イザベラは、何事もなかったかのように歌い切った。 舞台から降りた彼女は、控え室で鏡の前に立ったまま、長いあいだ動かなかった。
ロッシーニは、扉の外で立ち尽くしていた。 入るべきか、入らぬべきか。 慰めるべきか、触れてはならぬ領域なのか。 彼は知っていた。芸術家にとって、自分の「衰え」を他者に指摘されることが、どれほど残酷であるかを。 だが同時に、彼女が、その事実にひとりで向き合うことの残酷さも、想像できてしまった。 結局、彼はノックをした。 「……入ってもいいか」 「ええ」 短い返事だった。 中に入ると、イザベラはまだ鏡の前にいた。ドレスの背中の紐を解きながら、振り返らずに言った。 「……聞こえた?」 その問いは、ほとんど確認ではなかった。すでに答えを知っている者の声だった。
ロッシーニは、一瞬だけ言葉を失った。 「……今夜は、少し無理をした」 それが、彼の選んだ言葉だった。 イザベラは、小さく笑った。 「そう。……つまり、“割れた”ということね」 彼は否定できなかった。 沈黙が、部屋に落ちた。 イザベラは、鏡越しに彼を見た。 「ねえ、ジョアキーノ。あなたは……私が、どこから始まった人間だと思っている?」 「……どこから?」 「声よ」 彼女は、静かに言った。 「私は、声で生きてきた。声で選ばれ、声で愛され、声で生き延びてきた。……だから、もしそれを失ったら、私は、何になるの?」
その問いは、ほとんど存在そのものを揺さぶる問いだった。 ロッシーニは、答えを持っていなかった。 「……あなたは、声だけの人間ではない」 そう言いながら、自分の言葉が、どこか空虚に響いていることを、彼自身が感じていた。 イザベラは、その空虚さを、見逃さなかった。 「でも……あなたが最初に愛したのは、私の声でしょう?」 それは責める声ではなかった。 ただ、真実を確かめようとする声だった。 ロッシーニは、否定できなかった。 否定しなかった。 その沈黙は、彼女にとって、十分な答えだった。 翌日から、イザベラは、これまで以上に厳しく自分を追い込むようになった。 発声練習の時間を増やし、稽古の合間にも、喉を休めるどころか、さらに歌い続けた。 「まだできる」 その言葉は、周囲に向けたものではなく、自分自身に向けた呪文のようだった。
ロッシーニは、その様子を、苦い思いで見つめていた。 ——やめさせるべきか。 ——それとも、見守るべきか。 どちらを選んでも、彼女を傷つけることになる。 やがて、噂が動き始めた。 「コルブランの声が、かつてほどではないらしい」 その言葉は、舞台裏だけでなく、社交界のサロンにも広がっていった。 賞賛は、ゆっくりと、しかし確実に、別の方向へと流れていく。 若い歌手たちが、イザベラの座を狙い始める。 かつて彼女を取り囲んでいた男たちは、いつの間にか距離を取るようになる。 名声とは、常に、音よりも早く移ろう。 ある夜、イザベラは、疲れ切った様子で帰宅した。 椅子に身を投げ出すように腰を下ろし、ぽつりと言った。 「……客席の空気が、変わったわ」
ロッシーニは、黙って頷いた。 「拍手はある。でも……かつてのような、あの“待たれている感じ”がない」 彼女は、ゆっくりと顔を覆った。 「……私、もう……終わりなのかしら」 その言葉は、ほとんど囁きだった。 ロッシーニは、彼女のそばに近づき、静かに言った。 「終わりではない。……ただ、変化しているだけだ」 イザベラは、顔を上げた。 「変化? それは、慰めの言葉?」 「いいえ。……現実だ」 「現実……」 彼女は、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。 だが、現実という言葉が、彼女にとってどれほど残酷な響きを持つかを、彼は理解しきれていなかった。 彼女は、声とともに生きてきた人間だった。 だから、声の衰えは、単なる技術的な問題ではない。 それは、存在そのものの崩壊に等しかった。
ロッシーニは、その夜、ひとりで楽譜に向かいながら、初めて、自分の筆が止まっていることに気づいた。 書こうとすればするほど、頭の中に浮かぶのは、かつてのイザベラの声だった。 ——もう戻らない声。 その事実が、彼の創作を、内側から少しずつ蝕んでいった。 そして彼は、まだこのとき、気づいていなかった。 彼女の衰えを恐れているのは、彼女自身だけではないということに。 彼自身もまた、彼女の声とともに、自分の音楽の一部を失いつつあったのだということに。
第五章 愛が言葉を失うとき(沈黙の増殖)
家の中に、音が減っていった。 それは劇的な変化ではなかった。皿が触れ合う音が少しだけ慎重になり、扉の開閉がわずかに静かになり、足音が、互いを探らぬように抑えられるようになった。 言葉が減ったのではない。**言葉を選ぶ時間が増えた**のだ。 朝の食卓で、イザベラはカップを持ち上げながら言いかけて、やめた。 「……今日のリハーサルは——」 その先に続く言葉が、彼女自身にも見えなかった。 ロッシーニは、その途切れを見逃さない。だが、拾い上げることもできない。 「……無理はするな」 そう言いかけて、彼は口をつぐんだ。その言葉が、彼女の耳には「もう歌うな」と聞こえてしまうかもしれないことを、彼は知っていた。 だから代わりに、彼は新聞をめくった。
イザベラは、その仕草を見て、わずかに唇を結んだ。 こうして、ひとつの言葉が言われなかった。 言われなかった言葉は、空気の中で消えるのではなく、**沈殿していく**。 それは、目に見えない堆積物となって、ふたりの間に、少しずつ厚みを増していった。 --- 稽古場では、イザベラは以前にも増して完璧を装った。 疲れていても笑顔を保ち、喉が痛んでもそれを隠し、無理なフレーズにも「大丈夫」と頷いた。 「私はまだ、立てる」 それは宣言というよりも、祈りに近かった。
ロッシーニは、その祈りを、誰よりも痛ましく見つめていた。 「今日は、ここまでにしよう」 彼がそう言うと、イザベラは、ほんの一瞬だけ、表情を硬くした。 「……私が、限界だと?」 「いいや。……私が、限界なんだ」 そう言い換えることで、彼は彼女の誇りを守ろうとした。 だが、その配慮は、彼女にとっては、別の意味を持ってしまう。 ——彼は、私の声を、直視できなくなっている。 優しさは、ときに、最も鋭い拒絶として届く。 --- 夜が深くなると、ふたりは同じ部屋にいながら、別々の孤独の中にいた。 ロッシーニは机に向かい、白紙の楽譜を前に、ペンを持ったまま動かない。 イザベラは寝台に横たわり、天井を見つめながら、かつての喝采を思い出している。 同じ空間。 だが、思考は、互いに触れ合わない。
ある晩、イザベラは耐えきれなくなって、起き上がった。 「……ねえ」 ロッシーニは、ゆっくりと振り返った。 「あなたは……私が怖いの?」 思いがけない問いだった。 「……なぜ、そう思う」 「私の声のこと。私の衰えのこと。あなたは、それに触れないでしょう」 彼は、言葉を探した。 「……触れないのではない。触れ方が、わからないんだ」 「それは……同じことよ」 イザベラの声は、静かだったが、確かに震えていた。 「私は、自分の衰えと毎日向き合っている。でも、あなたは……それを見ないふりをしている」 「見ないふりをしているわけじゃない」 「でも、語らないでしょう?」 沈黙が落ちた。
イザベラは続けた。 「語られないことは……存在しないのと同じなの」 その言葉は、彼の胸を、深く打った。 彼は、守るつもりで、黙っていた。 だが、彼女にとっては、その沈黙こそが、「見捨てられている」という感覚を育てていたのだ。 --- 数週間後、新聞の片隅に、小さな記事が載った。 > 「近頃、コルブラン夫人の歌唱に、かつての輝きが見られないとの声もある」 たった数行の文章だった。 だが、その数行は、どんな長文の批評よりも残酷だった。 イザベラは、黙って新聞を畳んだ。 ロッシーニは、彼女の手元を見て、すぐに理解した。 「……気にすることはない」 そう言った瞬間、彼は自分の失敗を悟った。 彼女は顔を上げた。 「気にしないでいられるなら……私は、こんな人生を生きていないわ」 それは、責める声ではなかった。 ただの、疲れた声だった。 疲れた声は、怒りよりもはるかに重い。
ロッシーニは、その重さの前で、言葉を失った。 --- こうして、ふたりのあいだには、次第に「話題」がなくなっていった。 正確には、話題はある。 だが、そのどれもが、地雷のように思えた。 声。 舞台。 老い。 将来。 どれに触れても、相手を傷つけるか、自分が壊れるかのどちらかだと感じられた。 だから、ふたりは、天気の話をした。 来客の噂をした。 料理の塩加減について語った。 そして、そのすべてが、どこか嘘のように響いた。 愛は、まだあった。 だが、愛を言葉に変換する回路が、どこかで断線していた。 ふたりは、相手を傷つけまいとするあまり、互いに最も必要なもの——**率直さ**——を差し出すことができなくなっていた。
ある夜、ロッシーニは、ふと気づいた。 彼は、イザベラの歌を、以前ほど熱心に聴けなくなっている。 それは、愛が冷めたからではなかった。 むしろ逆だった。 ——これ以上、失われていくものを、直視する勇気がない。 その事実に気づいたとき、彼は、自分自身に戦慄した。 彼女の衰えから目を逸らしているのは、彼女のためではない。 **自分のためだった。** その認識は、彼にとって、ほとんど告白に等しかった。 そして同時に、彼は理解し始めていた。 この沈黙は、偶然ではない。 これは、ふたりが無意識に選び取っている「防衛」なのだ。 傷つかないために、傷つけないために、 言葉を削り、感情を削り、存在感を削っていく。 だが、その防衛は、やがて、関係そのものを削り取っていく。 沈黙は、静かに、しかし確実に、愛の輪郭を侵食していた。 そして、ふたりとも、まだはっきりとは認めていなかった。 この沈黙が、もはや一時的なものではなく、 **ふたりの関係の「新しい形」になりつつある**ということを。
終章 葬送と沈黙(彼女の死)
冬は、音を奪う。 ナポリの街は、いつもの喧騒をどこか遠慮がちに潜め、石畳の上に落ちる足音さえ、雪のように吸い込まれていくようだった。 イザベラが床に伏すようになったのは、そんな季節のはじまりだった。 最初は「少し喉を痛めただけ」と言っていた。次に「疲れが抜けない」と言った。そしてやがて、言葉そのものが減っていった。 声を使わないようにするためではない。話すことが、あまりにも多くの記憶を呼び覚ましてしまうからだった。 ロッシーニは、ほとんど毎日、彼女の寝室にいた。 だが、そこでもまた、言葉は少なかった。 「……眠れるかい」 彼がそう尋ねると、イザベラはわずかに頷いた。 「ええ。……夢は、あまり見ないわ」 その言葉に、彼は安堵するべきなのか、悲しむべきなのか、わからなかった。 夢とは、ときに、最も残酷な舞台である。 彼女の夢に、かつての喝采が、あの眩しい光が、鳴り止まぬ拍手が現れていないことを、ただ祈るしかなかった。
--- 彼女が舞台に戻ることは、ついになかった。 かつての友人たちの訪問は、次第に減り、やがて途絶えた。人は、栄光には群がるが、衰えには、なかなか向き合えない。 それでも、ひとりだけ、彼女のもとを訪れ続ける男がいた。 夫であるロッシーニだった。 だが、その「当たり前のこと」が、どれほど難しい選択であったかを、彼自身が最もよく知っていた。 彼は、彼女のそばにいるとき、自分の中のさまざまな感情と向き合わなければならなかった。 哀れみ。 恐れ。 後悔。 そして、愛。 愛だけが、常に純粋なままであり続けるわけではない。 人は、愛しているからこそ、逃げたくなることがある。直視すれば壊れてしまう何かを、目の前に突きつけられるとき、人はしばしば、「距離」という名の避難所を求める。
ロッシーニは、何度も、その誘惑と闘っていた。 だが、彼は逃げなかった。 逃げなかったのは、勇気のためというよりも、むしろ、これ以上逃げ続けたなら、自分が一生、自分自身を許せなくなることを、直感的に理解していたからだった。 --- ある午後、イザベラは、珍しく、自分から言葉を発した。 「……ねえ、ジョアキーノ」 「どうした」 「私……夢を見たの」 彼は、思わず身を乗り出した。 「どんな夢だい」 イザベラは、天井を見つめたまま、しばらく考えてから言った。 「……また、舞台に立っていたわ。眩しくて、何も見えなくて……でも、私の声だけは、はっきりと聞こえた」 「……良い夢だったのか」 「ええ……たぶん。でも……」 「でも?」 「目が覚めたとき……少し、ほっとしたの」 その言葉は、静かだったが、深い意味を持っていた。 ——もう、戻らなくていいのだと。 ——あの場所に、無理に立たなくてもいいのだと。 それは、諦めではなく、ようやく訪れた「赦し」のようでもあった。 ロッシーニは、その言葉を胸に受け止めながら、同時に、自分自身の中にも、同じような赦しが必要であることを感じていた。 --- 春が近づいた頃、イザベラの容体は、目に見えて弱っていった。 ある朝、彼女は、ほとんど聞き取れない声で言った。 「……あなた、後悔している?」 彼は、すぐには答えなかった。 「何を?」 「……私と、結婚したことを」 その問いは、責めるためのものではなかった。 ただ、人生の終わりに差しかかった人間が、最後に確かめておきたい、ひとつの真実だった。 ロッシーニは、長い沈黙のあと、静かに言った。 「……後悔していることは、たくさんある」 イザベラの瞳が、わずかに揺れた。 「だが……君と出会ったことは、違う」 彼は、彼女の手を、そっと握った。 「君と出会わなければ、私は、ここまで生きることも、ここまで苦しむことも、ここまで人を理解することも、できなかった」 それは、愛の告白というよりも、人生の告白だった。
イザベラは、しばらく彼の顔を見つめていたが、やがて、かすかに微笑った。 「……それなら……よかった」 その微笑は、かつて観客を魅了した舞台上の笑みとは、まったく違うものだった。 だがロッシーニは、その瞬間、自分が初めて、本当の意味で、彼女に「選ばれている」と感じた。 声でもなく。 栄光でもなく。 ただ、ひとりの人間として。 --- イザベラ・コルブランは、その数日後、静かに息を引き取った。 劇場の鐘は鳴らなかった。 新聞に載ったのは、小さな死亡記事だけだった。 > 「かつて名高き歌姫、コルブラン夫人逝去」 それだけだった。
ロッシーニは、その紙面を長く見つめていた。 あまりにも短い。 彼女の人生は、あまりにも長く、あまりにも濃かったのに。 彼は、葬儀の日、棺の前で、ほとんど動かなかった。 涙は、出なかった。 涙というものは、まだ痛みが生きている証拠でもある。 彼の中で、痛みは、すでに言葉にならぬ何かへと変質していた。 それは、喪失というよりも、**沈黙そのもの**に近かった。 --- 数週間後、彼はひとりで楽譜に向かった。 白い紙。 ペン。 静かな部屋。 かつてなら、そこから無数の音が溢れ出した。 だが今、何も浮かばない。 いや、正確には、浮かぶ音が、すべて過去のものだった。 イザベラの声。 あの夜の劇場。 割れた高音。 鏡の前の背中。 それらが、音楽ではなく、記憶として、彼の中に滞留していた。 彼は、ゆっくりとペンを置いた。 そして理解した。
——私は、もう、以前のようには書けない。 それは絶望ではなかった。 ただの、事実の受容だった。 彼の音楽の一部は、確かに、イザベラとともに死んだ。 だが同時に、彼の中には、別の何かが残っていた。 それは、成功でも名声でもない。 「人を、愛してしまったという記憶」だった。 その記憶は、彼を破壊した。 だが同時に、それは、彼を、かつてよりもはるかに深い人間へと変えていた。 ロッシーニは、窓を開けた。 春の風が、部屋に入り込んだ。 どこかで、遠く、誰かが歌っている声がした。 それは、イザベラの声ではない。 だが、彼はその声に、目を閉じて、しばらく耳を澄ませていた。 かつてのように、旋律を探すためではない。 ただ、人間の声が、この世界にまだ存在していることを、確かめるために。 それだけで、十分だった。 こうして、ひとつの愛は終わった。 そして、ひとつの沈黙が始まった。 この沈黙こそが、やがて、別のかたちの人生へと彼を導いていくことを、彼自身は、まだ知らなかった。
第Ⅱ部 オランプ・ペリシエ編
第一章 閉ざされた部屋に来た人
ロッシーニがパリに移り住んだのは、逃げるためだった。 名声から。 劇場から。 そして何より、自分自身から。 ナポリの街角には、どこへ行っても記憶が立っていた。石畳の曲がり角、楽屋口の裏手、夜の港。すべてが、イザベラの声を運んでくる。 だから彼は、場所を変えた。 だが、記憶は、国境を越える。 パリ郊外の邸宅。厚いカーテン。閉ざされた窓。時刻を告げるものは、壁の時計の乾いた音だけだった。 彼は生きていた。 だが、それは「存在している」という意味でしかなかった。 朝は来る。 食事は運ばれる。 日が沈む。 だが、そのすべてが、彼にとっては、どこか他人事のようだった。 机の上には、楽譜用紙が置かれている。ペンもある。インクも乾いていない。 それでも、彼の手は、それらに触れようとしなかった。
——書けば、思い出してしまう。 音楽を書くという行為は、彼にとって、かつては喜びだった。だが今では、それは、過去を無数に呼び起こす装置に等しかった。 声。 喝采。 割れた高音。 鏡の前の沈黙。 それらが、一度ペンを走らせただけで、洪水のように押し寄せてくることを、彼は知っていた。 だから、彼は書かなかった。 書かないことで、かろうじて、世界と距離を保っていた。 人々は噂した。 「ロッシーニは終わった」 「天才は若くして燃え尽きるものだ」 「彼は、もはや何も生み出せないのだろう」 その声は、彼の耳にも届いていた。 だが、それらはもはや、彼を傷つける力すら持っていなかった。 痛みは、すでに十分にあった。
--- ある午後、ノックの音が、部屋の沈黙を破った。 控えめな、だが確かな音だった。 ロッシーニは、反応しなかった。 誰かが訪ねてくること自体が、彼にとっては負担だった。見舞い。励まし。期待。どれも、今の彼には重すぎた。 だが、ノックは一度きりでは終わらなかった。 しつこくもなく、遠慮しすぎてもいない、ちょうどよい間隔で、もう一度。 やがて、扉の外から、静かな声がした。 「……失礼します」 女性の声だった。 召使いが通したのだろう。ロッシーニは、内心でわずかな苛立ちを覚えながら、顔を上げた。 扉が、ゆっくりと開いた。 そこに立っていたのは、若い女性だった。 華美ではない。だが、貧相でもない。黒髪はきちんとまとめられ、服装は簡素でありながら、どこか品があった。目立つ美貌ではない。だが、目の奥に、静かな強さがあった。
「オランプ・ペリシエと申します」 彼女はそう名乗り、深く頭を下げた。 ロッシーニは、即座にその名を認識したわけではなかった。ただ、奇妙なことに、その声が、彼の中で何かを過度に刺激することもなかった。 それが、むしろ新鮮だった。 「……どなたの差し金だ」 彼は、無愛想に言った。 オランプは、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに答えた。 「誰の差し金でもありません。ただ……あなたにお会いしたくて来ました」 「私は、会うに値する人間ではない」 それは、謙遜ではなかった。 ただの事実認識だった。 オランプは、少し考えるように間を置いてから言った。 「価値があるかどうかは……私が決めます」 その言い方は、挑戦的でも媚びでもなく、ただ、まっすぐだった。
ロッシーニは、その言葉に、わずかな違和感を覚えた。 誰もが彼に対して、「天才」として話しかけてくる。 だがこの女性は、まるで、目の前にいるのが、ただの「ひとりの男」であるかのように話している。 「……なぜ、私に会いたいのですか」 オランプは、少し視線を落とした。 「……理由をうまく言葉にできるほど、私は賢くありません」 「それでも」 「……ただ、あなたが、とても孤独に見えたからです」 その言葉は、驚くほど静かだった。 だが、だからこそ、逃げ場がなかった。 孤独。 それは、誰もが彼に感じていながら、決して口にしなかった言葉だった。
ロッシーニは、思わず、視線を逸らした。 「……同情なら、必要ない」 「同情ではありません」 即座に、彼女は言った。 「……たぶん、共鳴です」 「共鳴?」 「ええ。孤独な人のそばにいると……なぜか、自分自身が静かになる気がするのです」 その言葉は、説明というよりも、告白に近かった。 ロッシーニは、返す言葉を見つけられなかった。 ただ、奇妙なことに、彼女の存在が、これまで訪れた誰よりも、部屋の空気を乱していないことに気づいていた。 彼女は、何かを求めているようでいて、実際には、ほとんど何も要求していなかった。 ただ、そこに立っている。 ただ、静かに、彼を見ている。 それだけだった。 「……座りますか」 気づけば、彼はそう言っていた。
オランプは、小さく頷き、部屋の椅子に腰を下ろした。 沈黙が落ちた。 だが、それは、これまで彼が恐れてきた沈黙とは、どこか質の違うものだった。 重苦しい沈黙ではない。 「何かを言わなければならない」という圧迫を伴わない沈黙。 それは、初めて経験する種類の静けさだった。 やがて、オランプは、ふと窓の方を見て言った。 「……光が、きれいですね」 ロッシーニは、思わず窓を見た。 厚いカーテンの隙間から、午後の光が、細い線のように床に落ちていた。 彼は、その光を、ずいぶん久しぶりに、意識して見た気がした。 「……ええ」 それだけの返事だった。 だが、そのたった一語が、長いあいだ、彼の中で発せられていなかった種類の言葉であることに、彼自身が驚いていた。
オランプは、満足そうに微笑った。 「……また、来てもよろしいですか」 唐突な申し出だった。 だが、その言葉には、押しつけがましさがなかった。 来たいから来る。 嫌なら、断ればいい。 そのくらいの距離感で言われていることが、はっきりと伝わってきた。 ロッシーニは、一瞬だけ迷い、そして言った。 「……好きにしてください」 それは許可とも拒絶ともつかない言葉だった。 だが、オランプは、それを十分な肯定として受け取ったようだった。 「……ありがとうございます」 そう言って、彼女は静かに立ち上がり、深く一礼して、部屋を出ていった。 扉が閉じたあと、部屋には、再び沈黙が戻った。 だが、その沈黙は、これまでとはどこか違っていた。 ロッシーニは、机に向かったまま、しばらく動かなかった。 やがて、彼は気づいた。 部屋の空気が、ほんのわずかに変わっている。 何かが、入り込んだというよりも、何かが、置かれていったような感覚だった。 それは言葉では説明しにくい、きわめて微細な変化だった。 だが、その微細さこそが、後になって彼の人生を決定的に変えていくことを、彼はまだ知らなかった。 ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。 彼は、久しぶりに、「次に来る時間」を、ほんのわずかだが、想像していた。 それは、長いあいだ彼の中から消えていた感覚だった。 希望というほど大げさなものではない。 だが、完全な無関心とも、もう同じではなかった。 それだけで、十分だった。 こうして、ひとつの出会いが、静かに、ほとんど気づかれぬままに始まった。 それは、かつてのように人生を焼き尽くす炎ではなかった。 だが、長い夜を越えるための、微かな灯りとしては、あまりにも確かな始まりだった。
第二章 沈黙を恐れない女
オランプは、約束どおり、再び現れた。 次の日でもなく、翌週でもなく、数日という曖昧な間隔を置いて。まるで、訪れることが義務ではなく、自然な流れであるかのように。 ロッシーニは、その訪れを「待っている自分」に、ある朝ふと気づいた。 待つ——それは、彼が長いあいだ、自分から切り離していた感覚だった。待つとは、未来を想定することであり、未来を想定するとは、再び何かを期待することだからだ。 期待は、痛みを伴う。 だから彼は、できるだけ、何も待たないように生きてきた。 だが、扉の向こうで足音が止まり、あの控えめなノックが響いたとき、彼の胸の奥で、ほんのわずかな温度が生まれるのを、否定できなかった。
「……失礼します」 彼女は、いつも同じ調子で入ってくる。 特別な笑顔も、気遣いの言葉もない。 それが、かえって彼にはありがたかった。 「今日は……何をしていたのですか?」 オランプは、部屋を見回しながら、何気なく尋ねた。 「……何も」 ロッシーニは、正直に答えた。 「……何もしない時間、というのも、大切なのかもしれませんね」 慰めでも、皮肉でもない。 ただ、そういう時間が存在してもよい、という前提で語られている言葉だった。 彼は、その前提に、密かに救われている自分を感じた。
--- オランプは、彼の生活に、ほとんど何も加えなかった。 料理を作り替えることもなければ、部屋を整え直すこともない。楽譜に触れることもなければ、過去について根掘り葉掘り尋ねることもない。 彼女がしていたのは、ただ、「そこにいる」ことだった。 だが、その「ただいる」という行為が、驚くほど難しいものであることを、ロッシーニは知っていた。 人は、沈黙に耐えられない。 沈黙の中では、自分自身と向き合わざるを得なくなるからだ。 多くの人は、会話で沈黙を埋めようとする。 だがオランプは、沈黙を埋めなかった。 彼女は、沈黙を、沈黙のままにしておいた。 それは、彼にとって、これまで誰もしてくれなかった種類の配慮だった。
--- ある日、オランプは、窓辺に置かれたままのカーテンに目を留めた。 「……少しだけ、開けてもいいですか?」 「……好きにするといい」 彼女は、ほんのわずかに、カーテンをずらした。 光が、部屋の床に、細い帯のように落ちた。 それだけのことだった。 だが、その光の線は、部屋の中に、これまで存在していなかった「時間」を持ち込んだ。 朝の光。 午後の光。 夕方の光。 ロッシーニは、気づくようになった。 この部屋にも、きちんと、時間が流れているのだということに。 --- 「……あなたは、ここにいるとき、楽です」 ある日、彼は、不意にそう口にしていた。 言ってから、自分で驚いた。 「楽、ですか?」 オランプは、少しだけ首を傾げた。 「ええ。……何かを演じなくていい」 その言葉は、長いあいだ、彼が誰にも言えなかった種類の告白だった。 天才であれ。 機知に富め。 面白い男であれ。 彼は、人生の大半を、「何者かであること」を求められて生きてきた。 だが、この女性の前では、「ただ存在すること」が許されている。 それが、どれほど稀なことかを、彼は知っていた。 オランプは、少し考えてから言った。 「……それは、たぶん、あなたが、ここで“何者かになろうとしていない”からだと思います」 「……何者かになろうとしていない?」 「ええ。今のあなたは……ただ、あなたとして、そこにいらっしゃる」 その言葉は、批評ではなく、観察だった。 だが、その観察は、彼の胸の奥を、正確に射抜いていた。
--- やがて、ロッシーニの生活に、ごく小さな変化が生まれ始めた。 朝、ほんの少し早く目が覚める。 午後、窓の光の動きを、無意識に追う。 夜、彼女が帰ったあとの部屋で、妙に長く椅子に座っている。 それらは、誰に見せるでもない、内側の変化だった。 だが、変化とは、たいてい、そういうところから始まる。 --- ある夕方、オランプは帰り際に言った。 「……今日は、少し長くお邪魔しましたね」 「……構わない」 「……また、来てもいいですか?」 「……あなたは、いつもそれを聞く」 オランプは、少しだけ微笑った。 「聞かないほうが、失礼かと思って」 「……失礼だとは、思わない」 それは、彼なりの精一杯の肯定だった。 彼女は、その言葉を、十分に受け取ったようだった。 「……では、また」 扉が閉じたあと、ロッシーニは、しばらく動かなかった。
やがて、彼は気づいた。 自分が、次に彼女が来る日を、頭の中で、自然に数えていることに。 月曜日。 あるいは、水曜日。 いや、正確な日付ではない。 ただ、「次に来る時間」が、彼の内側で、現実のものとして存在し始めている。 それは、彼にとって、長いあいだ失われていた感覚だった。 未来が、完全な空白ではなくなっている。 それだけで、彼の中に、説明しがたい変化が生まれていた。 それはまだ、希望とは呼べない。 だが、絶望でも、もはやなかった。 ただ、静かに、確かに、 彼の人生の底に、新しいリズムが生まれつつあった。 それは、彼女がもたらした、唯一にして最大の贈り物だった。 沈黙を恐れないということ。 それはつまり、 他者と共にいながら、無理に自分を作らなくてもよい、ということだった。
ロッシーニは、窓辺に立ち、カーテンの隙間から差し込む光を見つめながら、初めて、こう思った。 ——もし、この沈黙が続くなら……それは、悪くない。 それは、愛ではなかった。 まだ。 だが、それは、愛が生まれるために必要な、 きわめて確かな「空間」だった。
第三章 ピアノの蓋が開く日
部屋の隅に置かれたピアノは、長いあいだ、家具のように沈黙していた。 それは、埃をかぶった楽器というよりも、「触れられない記憶」のような存在だった。 ロッシーニは、その蓋を開けることを、意識的に避けていたわけではない。 ただ、そこに触れることが、何かを決定的に動かしてしまう気がして、無意識に距離を取っていたのだ。 ——開けた瞬間、すべてが戻ってきてしまうのではないか。 声。 劇場。 喝采。 葬送。 過去が、鍵盤の奥に潜んでいるように思えた。 だから、彼は弾かなかった。 いや、正確には、「弾く自分」を、許していなかった。
--- その日、オランプは、いつもより少し早く訪れた。 扉をノックする音も、いつもと変わらない。 だが、その日の空気は、どこか微妙に違っていた。 外では、春の雨が、静かに降っていた。 激しさはない。ただ、世界の輪郭を、少しずつ柔らかくしていくような雨だった。 「……雨ですね」 彼女は、窓の方を見ながら言った。 「……ええ」 それだけのやりとりだった。 だが、沈黙の中に、妙な親密さがあった。 --- オランプは、部屋に入り、いつもの椅子に腰を下ろした。 ロッシーニは、机の前に座り、白い紙を前にしていた。 何も書いていない。 だが、その白は、もはや「空白」ではなく、「待機」の色を帯びていた。 彼自身も、それに気づいていた。 書こうとしているわけではない。 だが、「書いてしまうかもしれない」という感覚が、どこかにあった。 --- 「……この家には、音が少ないですね」 ふと、オランプが言った。 それは、非難ではなかった。 ただの、事実の観察だった。
ロッシーニは、少し間を置いて答えた。 「……私は、音を避けてきた」 「……なぜですか?」 問いは、穏やかだった。 詮索でも、追及でもない。 ただ、「知りたい」という響きだけがあった。 彼は、しばらく考えてから言った。 「……音は、戻ってくるからだ」 「……何が?」 「……すべてが」 それ以上、言葉を足す必要はなかった。 オランプは、ゆっくりと頷いた。 理解した、というよりも、受け取った、という頷きだった。 --- しばらくして、沈黙が部屋に満ちた。 その沈黙は、重くもなく、空虚でもない。 ただ、何かが起きる前の、静かな張りつめを帯びていた。
ロッシーニは、無意識に、視線をピアノへと向けていた。 オランプは、その視線の動きを、何も言わずに見ていた。 やがて、彼は、ゆっくりと立ち上がった。 自分でも驚くほど、自然な動きだった。 ピアノの前に立つ。 長いあいだ、そうすることさえ、できなかったはずなのに。 彼は、蓋の上に手を置いた。 冷たい木の感触が、掌に伝わった。 「……開けても、いいだろうか」 誰にともなく、そう言っていた。 オランプは、すぐに答えた。 「……ええ」 ただ、それだけだった。 だが、その一語には、「弾いてほしい」という期待も、「弾かなくてはならない」という圧も、まったく含まれていなかった。 ただ、「あなたがそうしたいなら」という響きだけがあった。
ロッシーニは、ゆっくりと、ピアノの蓋を開けた。 微かな音を立てて、木が動く。 それだけの音が、部屋に、驚くほど大きく響いた。 まるで、長い沈黙の扉が、ほんのわずかに開いたかのようだった。 彼は、鍵盤の前に座った。 指を置く。 だが、すぐには弾かなかった。 そこには、ためらいがあった。 弾けば、戻ってくる。 それでも。 彼は、ひとつの音を、そっと押した。 低く、柔らかな音が、部屋に生まれた。 それは、何の旋律でもなかった。 和声でもなかった。 ただの、「音」だった。 だが、そのただの音は、彼にとって、驚くほど新鮮だった。 悲しみでもなく。 喝采でもなく。 記憶でもなく。 ただ、今、この瞬間に生まれた音。
——過去ではない音。 その事実が、彼の胸の奥で、静かに震えた。 もうひとつ、音を置く。 さらに、ひとつ。 やがて、それらは、意図せず、小さな流れになった。 旋律とは呼べない。 だが、確かに、動いている何か。 ロッシーニは、その流れを止めようとはしなかった。 止める理由が、なかったからだ。 --- オランプは、何も言わなかった。 拍手もしない。 賞賛もしない。 ただ、そこにいた。 それが、どれほど重要なことかを、ロッシーニは、あとになってから理解することになる。 もし、ここで彼女が「素晴らしい」と言っていたら。 もし、「また書いてください」と言っていたら。 彼の指は、きっと止まっていた。 なぜなら、その瞬間、音楽は再び、「期待に応えるためのもの」に戻ってしまうからだ。 だが、彼女は何も言わなかった。 だから、音は、音のままで、そこにあり続けた。
--- やがて、ロッシーニは、自然に指を止めた。 部屋には、再び沈黙が戻った。 だが、その沈黙は、これまでとは明らかに違っていた。 音を知ったあとの沈黙。 それは、空白ではなく、「余韻」を帯びた沈黙だった。 ロッシーニは、しばらく鍵盤を見つめてから、ゆっくりと振り返った。 オランプは、いつものように、静かに座っていた。 だが、その眼差しには、かすかな温かさがあった。 「……ありがとう」 彼は、思わずそう言っていた。 オランプは、少し驚いたように瞬きをした。 「……何に、でしょうか」 「……ここに、いてくれたことに」 それは、音楽に対する感謝ではなかった。 彼女の存在そのものに対する、はじめての、明確な言葉だった。
オランプは、しばらく何も言わなかったが、やがて、小さく頷いた。 「……私も、ここにいられて、うれしいです」 それは、飾りのない、素直な言葉だった。 --- その日以降、ロッシーニは、毎日ピアノに向かうようになったわけではない。 彼は、翌日も、その次の日も、弾かなかった。 だが、それでも、何かが決定的に変わっていた。 ピアノは、もはや「触れてはならない過去」ではなくなっていた。 そこには、再び、「現在」が宿っていた。 彼は知っていた。 自分は、再び、書き始めるかもしれない。 いや、「書くべきだから書く」のではない。 「書いてしまうから書く」日が、いずれ来るだろうということを。 それは、義務ではなく、衝動として。 才能の証明ではなく、呼吸のような行為として。 そして、その変化のきっかけが、壮大な事件ではなく、 ひとりの女性が、静かにそこに座っていただけの午後であったということが、 彼には、どこか深く、救いのように感じられた。 ピアノの蓋が開いた日。 それは、彼の人生が再び動き始めた、目に見えない記念日となった。
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