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場  所:釧路市浦見8丁目2−16

電話番号:0154−64−7018

Web  :http://www.cherry-piano.jp

メール :nikukaede@ymail.ne.jp

フランツ・リストが所有したピアノ

 19世紀になり、ピアノのヴィルトゥオーゾと呼ばれる演奏家たちが出現するようになると、楽器製作者たちは新しいスタイルの演奏の要求に応えられないこともしばしばあったが、それでも名演奏家に自分たちの楽器をヨーロッパ各地の舞台で実演してもらうことが重要になった。プレイエル社がショパンを専属として抱え込んだように、1824年にエラールのピアノ製作会社は、ハンガリーの若きピアノの天才フランツ・リストと専属契約をする幸運を掴み、明るい展望が開けた。リストは、特許を取得したダブル・レペティション・アクションを備え、完全な7オクターヴの音域を持つ、エラールの新作のグランドピアノを寄付され、初仕事としてイギリス・ツアーを行うことになった。アクションの反応が速いその楽器と、日増しに高まるリストの人気によって、数年のうちにエラールはヨーロッパで最も需要の高いコンサート・ピアノの座を、ブロードウッドから奪った。

  しかし、フランツ・リスト自身はひとつのメーカーにいつまでも縛られはせず、演奏旅行の先々では地元メーカー産のピアノを使用した。1850年にエラールに宛てた手紙の中でリストは「地方の産業も全国的な産業も、どちらもが盛えるのを邪魔しないこと」が自分の義務だと書いている。リストはウイーンではグラーフとシュトライヒャーのピアノを、イギリスではブロードウッドのものを、南フランスやスペイン、ポルトガルではボワスロを弾いていたことが知られている。

  リストがどのメーカーの、どんなタイプのピアノでも弾きこなすことが出来たのは、普段、重い鍵盤で練習をしていたからで、リストがコンサートで使用した楽器の多くは、鍵盤を叩きつける力と、派手で豪華な熱演によって、弦や鍵盤やアクション部品を破壊された。傷ついたピアノは演奏の合間ごとに調律しなくてはならず、場合によっては舞台袖に予備のピアノが控えていて、演奏を続行出来ないほどに故障した時には、すぐに取り替えることが出来たという。そういったリストの評判は多くの人に広まり、演奏会が終わった時にピアノが無事であると聴衆ががっかりするほどだった。

  リストはピアノの技術者ではなかったものの、この楽器の技術革新には興味を持っていた。「ペダルのないピアノなど、ただのダルマシーに過ぎない」と語ったこともあり、長旅には練習用の音の出ない鍵盤を持ち歩き、ピアノのための足鍵盤の実験を行った。さらには、複合楽器ピアノ・ハルモニウムまで所有していた。

  そして1841年には、リストは鍵盤のパガニーニとみなされるようになっていた。7オクターヴまで広がったピアノの音域はリストの技巧と音楽性に応え、強化されたフレームはリストの肩や腕、手首の重みにも耐えられるようになった。そのころのリストは音が長く持続するベーゼンドルファーの賞賛者で、1850年にリストを訪門した者の報告によると、家にはベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ボワスロ、シュトライヒャー、さらにベートーヴェンが所有していたブロードウッドがあったという。

  晩年になるにつれて、リストはピアノ会社の宣伝に協力することには消極的になるが、楽器の技術発展には関心を寄せ続け、1884年にはアメリカのチッカリング社を賞賛した。リストの支持に対するピアノ会社の感謝は熱烈で、自分たちのピアノをアメリカからヨーロッパへ、そしてアルプスを越えてローマのリストの滞在先までわざわざ送り届けた。しかし、リストがそのピアノへ贈った賛辞も、彼のこの言葉で色褪せてしまっただろう。「スタンウエイ氏が家へ来たら、彼とピアノの話をしたいと思っています。彼のグランドの構造について語りたいのです」(リストの手紙より)。ローマの住居には、チッカリングとスタインウェイのピアノが置かれていた。

チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)釧路市のピアノ教室

大学時代はパイプオルガン科に進み、卒業後は音楽学校でラウンジプレイヤー養成・ピアノ科で学ぶ。ピアノ講師に就いた後、北ドイツのハンブルグに留学し、ヨハネス・ブラームス音楽院ピアノ科を卒業する。世界三大音楽院のモスクワ音楽院のピアノマスタークラスを修了し、イギリスのトリニティ音楽大学の演奏グレードを取得し現在のピアニスト活動に至る。作間洋子、水垣玲子、エレーナ・リヒテル、岳本恭治、岩崎洵奈に師事した

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